中高野街道を歩く(4) 環濠自治都市・平野郷


平安時代の初め、桓武天皇の時代まで遡ると、蝦夷(えみし)征伐で活躍した坂上田村麻呂という武将が現れる。 その子、広野麻呂が治めたのが「平野」であり、広野麻呂の名が地名の元となったという説もある。 再び登場するのは、戦国から江戸初期のことで、平野は当時の堺と並ぶ自治都市として名を挙げた。 朱印状を受けて末吉船が活躍したのもこの時代であり、秀吉および家康の時代に「大坂」(あるいは船場)の町づくりを担当したのも 末吉氏をはじめとした平野商人の力であった。 末吉橋、勘四郎町、東平(東平野町)などの地名が大阪市の中心部に残っているのも無縁ではない。 そういえば、道頓堀を掘作した成安道頓(安井道頓、改め)も平野七名家(坂上氏の末裔)の一員であることも明記しておきたい。

是非たずねて欲しい史跡など
・坂上広野麻呂屋敷跡
・坂上広野麻呂墓所(坂上公園)
・長寳寺(坂上田村麻呂の娘、春子妃が開山)
・春子妃墓所(長寳寺・全興寺・末吉家 墓所)
・杭全神社(広野麻呂の子、当道が創建)
・(西)末吉家邸宅(国の重要文化財)

あとは、古い町屋の残る町を、ごゆるりと散策していただきたいと思う。





個人的に杭全神社にお参りしたときは ・初詣 ・だんじり祭り ・七五三 のときでした。




杭全神社から南の道は流門筋と呼ばれる。 その道沿いに地獄堂のある全興寺(せんこうじ)の西門あり。 閻魔さんが待っている。



杭全神社北東側にはまだ環濠跡が残る。 平野川とつながり、かつては船着場があった。 河内の綿が集積したところでもある。



流口地蔵尊:流口を示すとともに中高野街道を南に下るときの目印となる。 この筋には、流町のだんじり小屋もあり。



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